昨夜のスライドショーで、
「これが寝姿山。そう見えるでしょ! 左手前が鹿俣山です。明日登りますよね!」
ロッジのKさん、ご自分で撮ったスライドを見せながら、こう説明していた。
6時前、洗面を済ませて食堂へ行くと、その寝姿山が雨空の向こうにくっきりと稜線を見せている。手前の鹿俣山も緑鮮やかだ。
「いいだろ、この景色! 鹿俣山の真後ろがサ、……上州武尊(ほたか)。あそこがまたいいんだよ」
窓越しに眺めているぼくに、覆い被さるように声がした。
食後ロビーへ行くと、ベランダの近くでなにか話し合っている。
「朝方相当降ったのだし、……かなり明るくなってきたし、……あがりますよね?」
仲間がロッジの方に話しかけているのだ。
「んんーん。そうですねー。この雲の流れからいって……」
肯定を求めての問いかけに、無碍(むげ)に悲観的に答えてはなんだし……。相手の目を避けて、あっちを見やりながら、ロッジの管理人は答弁に苦慮している。
「晴れてよし、降ってよしですよ」困り顔でそう付け加える。
雨の登山を覚悟した。
ブナの森
9時、ロッジ前に集合。ブナの森案内役Kさんの号令に合わせて、入念に準備体操。
少々の雨では雨具は上着だけのリーダーたちが、今日は完全武装している。
《小降りになったのに、なぜ?》
という思いは
《やっぱり!》
に寄り切られた。
ブナの森は雨に生き生きしている。快晴よりも似合うのかも知れない。
早速案内役のKさんが、足を止めて説明する。
…………
「これ、何の木かわかります? カエデ科で、ミツバカエデですが、一般的には”目薬の木”です。”長者の木”とも言います。これで大儲けした人がいるのでしょうね。私たちも負けじと、かなり植えました。あと20年くらいかかりそうですが」
…………
「斜面の木はすべていったん下の方に曲がって、それから伸びているでしょう。根曲がり現象≠ニいっています。毎年3mほど雪が積もるからですよ」
…………
「”目薬の木”は民間薬になります。こちらの木、(皮をはいで)内皮が黄色いでしょ! キハダです。漢方薬になるんですよ」
…………
「サルノコシカケです。少し触るだけで長生きします」
「黄色いのがキツリブネソウ、白いのがヨツバヒヨドリ。これはニオイコブシ、タマシバともいいます」
ブナ林に響く雨音がだんだんと勢いを増すなか、Kさんのおかげでみんなの向学心は充たされた。
「さあ、ここから鹿俣山です」
いつの間にかブナ平分岐に着いた。降りしきる雨空を見上げて、ここで別れるKさんの、何ともいいようのない顔。
先を急ぐぼくたちに手を振りながら、
「気をつけて──。頑張ってくださーい!」
精一杯の声で送ってくれた。 10:40
断念!
ここからブナ林の景色が一転して、クマザサに覆われた山道になる。
背丈以上に伸びたクマザサは、至るところ両手で左右に払わなければ進めないようになっている。前の人の払ったのが後ろの人に跳ね返る場合もあり、気を付けあいながら登る。
それにしてもクマザサの藪、いい。
覆い被さっていながら、圧迫感がない。妙な言い方をすれば、大海原の開放感がある。色もほどよい薄緑だ。周囲のブナ、カエデ、ダケカンバの林ともマッチして、藪の中なのに、薄暗いトンネルを抜けたような錯覚に陥った。
「3月来たときは、スノーシューで歩いたんですよ。クマザサはすべて雪の下。一面ブナ林の銀世界でした」
Hさんが話す。
《まさか、このクマザサが全部雪の下に?!》
自然では”まさか”がいつも起きているようだ。
クマザサの藪を抜けるとゲレンデの真上だった。 12:00
ここから500mほど急坂を登ると鹿俣山頂上(1,637m)に行き着く。
雨はそんな期待をはかなく打ちのめすかのように、いまは非情。どしゃ降りである。風がないだけ恵みと思わねばならない。視界は不自由ではないが、雨雲は重くのしかかって遠景を完全に遮断している。
シェルターのようなところもなし、立ったまま、ロッジの弁当を開く。ほうばるおにぎりに次々と雨滴がまじる。
《たかだか500m歩くだけだけど、いいのかな? 足元が危険だよな。こんなにぬかるんでいては》内心先行きを案ずる。
しばらくして、
「残念だけど、頂上はあきらめて、これから下山します。雨もきついですが、足元がなお危険ですから」
リーダーも同じ考えだった。
帰途
下山道はラベンダーガーデンを目指した。みんなが十分に注意していつもよりゆっくり歩いたせいか、天気とは裏腹に楽な下山だった。ラベンダーガーデンは予想どおりひっそりしていた。横目で見やりながら過ぎる。
終点の沼田市オートキャンプ場に着いたときは、びしょぬれのグジュグジュだったが、身体はまだ余力を残していた。非情の雨は止んでいた。 14:00。
帰りのバスは途中、利根錦という酒蔵に立ち寄った。小瓶を何本か仕入れる。
バスはサロンと化した。
揺れながらの冷酒はすぐに利いた。
疲れを知らないみんなの話に耳を傾けながら、目を閉じる。
クマザサの藪、ダケカンバの自然林、サルノコシカケ、前夜の裕次郎…………
天狗のお面で目が覚めた。バスはもう関越自動車道を出て、首都高速に入っていた。
第21話「玉原・鹿俣山」 おわり
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